Thursday, December 20, 2012

走れサカグチ

ちょっと前まで自分がランニング進んでやるようになるなんて思ってもいなかった。いつまで続くか分からないが今のところ週2〜3回のペースで家の周りを5〜6キロ走っている。時間にして約30分ほど。その日の仕事から帰ってきて夜走る。

 時折通っていたジムを辞めて突然外を走り始めたのはここ3ヶ月くらいのことだ。 つい最近、ここ数年は毎日走っているという尊敬するDJ.松浦さんとご飯を食べていた時に外を走ることの気持よさをこんこんと説かれた。周りには他にも走っている人はたくさんいたので、いままでいろんな人から一緒に走ろうとか誘われてはいたものの、街を走るジョガーを見るにつけ、なんだか運動不足解消に外を走るっていうのはヤッピーのおじさんみたいでどこか恥ずかしいと思っていた。

なのにその時だけは、そういえばジムもサボりがちだし散歩がわりにちょっと走ってみてもいいかなと思った。なぜだかはわからない。 これまでも時々ジムに行くとトレッドミルで走ってはいた。でもあのトレッドミルというやつはテレビでも見ながらじゃないと飽きてしまってあまり長距離走る気にはなれない。運動しているいる時は余計なことはあまり考えないから目の前のテレビのどうでもいいギャグがダイレクトに刺さってつい笑ってしまう。部屋の中でドタドタ走りながらニヤニヤ笑っている自分にはたと気づくと、誰に見られているわけでもないのにこれがまたとても恥ずかしい。 

それはたぶん自分がかごの中でしゃかりきに走るハムスターのように思えるからだ。運動不足で重たい体をジタバタさせながらテレビみてケタケタ笑ってるなんて...。間違いなく運動をしているはずなのに、自分が晒しているのは運動の不足ばかり。 

そんなこともあってランニングにはどちらかというとネガティブなイメージしかなかった。でも変化は突然訪れる。  松浦さんもああ言っていたし、まあ散歩代わりにとそれまで街歩きに使っていたスニーカーを履いて家の玄関を出て走り始めてすぐ、外を走るということの意味が分かった気がした。

これまで何年も駅へ向かう為に歩くか、車で出かけて運転席から眺めるかしかなかった時とは全く違った風景が目に飛び込んできた。 それは見飽きた時速2〜3kmの徒歩の世界と、時速40kmオーバーの自動車の車窓から見る世界の間に広がる風景。道具(自転車)を使って走るのともまた違う。 

iPhoneのアプリを使って走るとGPSによって逐一キロ何分で走っているか分かる。駅までの距離も走りながらだと思っていたよりも全然近く感じる。逆に今まで車でしか行かなかった2〜3駅先の場所でも20分も走れば着いてしまったりする。 

こうして時間と距離を意識しながら走っていると、今の自分の足でどこまで行けるかということがだんだん感覚的に掴めるようになってくる。2駅先までは15分あれば走れるとか、折り返さずにそのまま走ればあのあたりまで行けそうだとか。

行きたいところがあれば自分の足で走っていけばいい。電車も自動車もいらない。この感覚はひさびさに味わう自由だった。生活に必要なものを自らの手仕事でなんでも作ってしまうクラフトマンのような感覚。 

都市で暮らしていると、移動には常にコストがかかる。だから同じお金でいかに元をとるか、楽に移動出来るかというコストパフォーマンスのことばかり考えだす。電車の中で椅子取りゲームが繰り広げられるのも、同じ電車賃でいかに楽に移動するかというコストパフォーマンス意識のあらわれだ。 

しかし自分の足で移動している分にはコストはかからない。ガソリンとしての食費はかかるけど、走らなくたって腹は減るから走るためのコストとは違う。それもまた自由だ。

 周りの友達はどんどんフルマラソンや100kmマラソンに挑戦したりしている。もうちょっとがんばれば100kmくらいは走れそうだ。100kmマラソンを14回繰り返せば1400km離れた地元鹿児島にだって自分の足だけで帰れる。 さすがにそれはやらないだろうけど「そんなの絶対に無理」と思っているのと、「このままがんばれば行ける(かもしれない)」と思えることの間にはまさに千里の径庭がある。

年を重ねるごとに少しずつ減ってくる、可能性の3文字を自分の足元に見つけた気分なのだ。 これがみんながはまる外を走ることの意味だったのかと思う。違うかな。