Monday, March 17, 2014

藤巻さんのこと

2010年。当時僕が所属していた会社トランジット・ジェネラル・オフィスの顧問をしていた藤巻さんから、あいつは地方に強そうだからということで、僕に新宿の伊勢丹の催事場を使った地方をテーマにしたイベントの企画をするようにと声がかかった。
当初の方向性としては鹿児島や九州のモダンな物産展がいいのではないかということになり、その最初の打ち合わせに呼び出されたのは2010年の大晦日。僕は藤巻さんからの強い希望があったのでランドスケープの中原くんに声をかけて一緒に新宿伊勢丹にその打ち合わせに行った。そこから何度かのやりとりを経て、まとめた企画のプレゼンをしに行く予定日は2011年の3月11日の夕方だった。
ところが2時過ぎにあの震災が起きた。当然その日のプレゼンは中止。その頃僕が手がけていた他のイベントもすべて中止や無期限延期になり、伊勢丹の企画自体も無くなったと思っていた。
改めて伊勢丹から連絡が来て、企画がふたたび動き出したのは震災からひと月以上経った頃。その時には僕は音楽家としてジェーン・バーキンとの出会いもあり今自分が東京でやるべき事は九州や鹿児島のことではないと思っていた。自分たちに出来る事が見えず悶々と考えていた時だった。
そんな時、益子でものづくりをしているみなさんが大変なことになっているという情報を中原くん経由で知った。直感的にそこに自分に出来る仕事があるように感じて、まず最初に益子の陶芸家の田村くんから現状を聞き、それから中原くん、編集者の柴田くん、田村くんとスターネットの馬場さん経由で僕は益子と笠間のたくさんの作家さん達に出会うことになった。
この出会いは最終的に2011年の秋新宿伊勢丹で「KASAMA∞MASHIKO展」という企画になり、この展覧会を、自分が所属していた会社を越えて中原くんのランドスケーププロダクツと一緒にプロデュースすることになる。笠間益子のみんなで協力して作り上げた、新宿伊勢丹のKASAMA∞MASHIKO展は展覧会としては大成功に終わり、その後僕がランドスケーププロダクツに合流する流れのひとつになった。
展覧会が終わった後、別件で藤巻さんにお会いした時に結果を報告したところ、心から嬉しそうにしてくれた。どれくらい嬉しそうだったかというと、その場で知り合いだという笠間市のある茨城県の副知事の携帯に電話をかけて電話越しに僕を紹介してくれたくらい喜んでくれたのだった。
僕は当時の所属会社ではマイペースに粛々と仕事をしていたので(今でもそうだが...)藤巻さんからお褒めの言葉なんていただいたのはこれが最初で最後のことになった。
この展覧会をきっかけに僕は益子と笠間に通い詰め、この地に今も続くかけがえのない友人がたくさんできた。その友人たちの多くを紹介してくれたスターネットの馬場さんは昨年亡くなった。
そして昨日、僕がそれまでなんの縁もなかった益子と笠間という街に向けて狂ったように走りだすそもそものきっかけを作ってくれた藤巻さんが突然帰らぬ人となった。不義理が続きここ最近の体調など全く知らなかったので、青天の霹靂とはこのことでいまだよく分からないでいる。
あの時藤巻さんからの理不尽なくらいのキラーパスがなかったら、僕に益子や笠間の友人はいなかった。今ここにもいないかもしれない。彼にとってはささいなバタフライ・エフェクトのような話しかもしれないけれど僕にとってはとても大きな蝶の羽ばたきだった。改めて本当に感謝しています。ものすごいスピードで走り続けた54年だったのだろうと思います。ゆっくりお休みください。ありがとうございました。

No comments:

Post a Comment