Thursday, July 6, 2017

DON UEMATSU

またひとり大切な人が向こうへ行ってしまった。
僕が鹿児島を出て、はじめてダブルフェイマスとして鹿児島に仕事で帰ったのは20年ほど前。その時ステージの舞台監督をしてくれたのが上松さんだった。てっきり裏方の人だとばかり思っていたら、その日の打ち上げは彼が天文館(鹿児島の繁華街)でやってるバーでやるという。それが<民芸茶寮かねじょう>だった。
ライブが終わって上松さんの店に足を踏み入れるとそこにはダブルフェイマスのファンがぎっしり集まっていた。ライブの時もそれなりに人は集まっていて、正直自分でもビックリしていた。ふつうに考えるとそんなことはありえない。まだインターネットに接続できる人も限られていた時代。ダブルフェイマスなんて活動を始めて間もなかったし、最初のアルバムを出した直後で本当に知る人ぞ知る(知らない人は全く知らない)超マニアックな存在だったからだ。東京ですらそんな状態だし地方にツアーに行ったのもほぼはじめてだった。
なぜそこにそんな人たちがひしめいていたか。それはマスターである上松さんが、自分で僕らのCDを買って夜な夜なかけては「いいだろ!いいだろう!?」と強制的にお客やお店で働いている歴代のバイト君達に「良い」と言わせ(思わせ)、挙句には自主的に仕入れて売りつけ、もっというと自分が好きな人(主に女の子)には「いらない」と言われても強制的に押し付けて持って帰らせてまで盛り上げてくれていたからだ。
その時から何度か鹿児島でライブがあると、かならず上松さんはなにかかにかと理由を付けては裏方として応援してくれた。上松さんの想いあふれすぎた自主プロモーションはその後も僕らが新しいアルバムを出すたびずっと続いた。僕が飲みにいっただけの時にも色んな人のCDを上松さんからもらったので、同じように他のミュージシャンにもしていたんだろうと思う。こうやって応援されたミュージシャンはたくさんいるはずだ。
僕がグッドネイバーズ・ジャンボリーを始めると言い出した時も、すごい心配しながらも全力で応援してくれた。自分に出来ることはこれくらいだからと舞台監督も買って出てくれた。(実際の現場は後輩が回していて、自分は裏でワインばっかり飲んでいたけど)。
そんな上松さんが病気になって店を閉めると言い出したのは3年ほど前になると思う。体調が優れずバーに立てなくなっていた。その時は彼が応援した人たちが交代でカウンターに立ち店を回していた。少し元気があると上松さんも店に来て、カウンターに座ってワインをちびちび飲んでいた。そんな時はさっきまで店で飲んでいたお客さんがカウンターの中に入って上松さんに酒を注いであげたりまでしていた。それほどまでに愛される酒場がそうそうあるだろうか。
そのカウンターの後ろには立派な松の絵が飾られていた。上松さんがいた時、この絵を背にして繰り広げられていた風景には特別なものがあった。<かねじょう>にはみんな酒を飲みに行くというより上松劇場を観に行くというような感じがあったのだ。マシンガンのような鹿児島弁で何言ってるかわからないことも多かったけど、店に行くととにかくお客さん同士をつなげまくって紹介してくれた。そんなふうにして知り合った友人が何人もいる。
店をやめてから何度かお見舞に行った。けれどお見舞いというよりいつも逆に励まされて帰ってくるのだった。「サカグチ君、よくやってるね!君はすごいよ。君はいまのままでいいんだ。よくがんばってる。」療養中だろうがなんだろうがいつも上松さんは上松さんだった。
いまから1週間ほど前。いよいよという時に病院で少しだけ会うことが出来た。僕が名乗り話しかけたら、ふらふらと腕をあげて握手してくれた。元気だったころまくし立てていた口からは言葉にならないかすかな音しか聞こえなかった。でも、僕が手を握ったら衰弱して痩せこけた見た目からは思いがけないほどの力で握り返してきた。僕は病気の上松さんを励ましにいったつもりだったのにまたしても励まされて病室を出た。それが最後だった。
上松さんの体力が弱って店のカウンターに立てなくなってきた頃、なにも出来ない僕はせめてもと彼の為に店でトランペットを吹いたことがある。彼が好きだったキューバの古い伝承曲。底抜けに明るい人だったけれど、裏腹に少し憂いのあるメロウな音楽が大好きだった。
彼の為のお別れの音楽会が開かれることになった。僕らは今度こそ彼の背中を押してあげるために、もう一度彼が愛した音楽を僕らなりに演奏出来たらと思っている。
さようなら
ドン上松
7月26日(水) 鹿児島 CAPARVO HALL
開演 18:00
チケット ¥5,000 1drink 1dish 込み
Don Uemats実行委員会アドレス
nogle@glashaus.co.jp