Thursday, September 24, 2015

強行採決について

彼らはなぜここまで強行にものごとを進めようとするのだろう。をぼんやり考える。

僕程度の普通(以下)の頭で考えてもおかしなことが多すぎる。逃げ切りで強行採決なんてもってのほかではあるけど、とにかく国会運営の劣化がひどい。与党も野党ももっと正々堂々とやればいいのに。子ども達も見てるんだから。

国民の理解が進んでいないということに関して、政権が説明責任を果たしていないという批判があるけれど、「法案が可決したら国民はそのうちわかる」というようなことを言っているくらいだから、そもそも安倍総理にはこの法案をこうまでして強引に進めなければいけない理由を説明をする気などなかったと思う。

国民の理解がなかろうと違憲だろうと突き進むのは、彼らにしか見えていない風景があって、それを国民に正直に説明しちゃうとまずいってことがたくさんあるからなんでしょうね。

戦後長きにわたって自民党と官僚が一党独裁体制の中でやってきた、もういまさら国民にしゃべっちゃうとパニックになるようなことはたくさんあるはず。そりゃもう、安倍家は祖父の代から絶対外では話せない、そんなものないことになってる密約とかワンサカあるんじゃないかな。

民主党政権の時にちょっとバレそうになったけど、政権を取り返してから作った特定秘密保護法によってこれからも明らかになることもない。 だから「日本をとりかえす」っていうスローガンだったのか。説明の仕方に問題があるんじゃなくて、そもそも説明なんて出来ないんでしょう。

ということなんで安保に関する十分な説明はこれからもされないのだろうと僕は思います。ただ、既成事実だけが積み重ねられていく。そして事実に対して反対することも難しくなっていく。というのが最悪のシナリオです。そうならないことを祈りますが。
戦争法案という言い方に対して、第2時大戦のようなことにはすぐにはならないと思うけど、テロとの戦いにはなっていくので、これから海外へ出かけるのはどんどん要注意になっていくのかと思うと…。

というわけで、国民の8割が納得してないまま法案だけが通ってしまったわけだけれど、8割ということは法案賛成者もいまいちよくわからないまま採決してしまったという状態です。

結局自民党は強行採決の根拠もそれに対する批判にもちゃんと答えていないけど、同時に法案賛成派にも十分な説明を与えていない。結果、安保法案推進派も情緒的、イデオロギー的に法案について賛成していても、論理的にこの法案の必要性を説明出来る人がほとんどいない、つまりは拠り所がどこか薄いままに支持しているということになってしまっているように思えます。違憲だという指摘に対して合憲性を誰もちゃんと答えられていない。

この法案に対する推進派と反対派のお互いに対するヒステリックな反応は、賛成派ですらなんでこの法案を通さなければいけないのかその根拠をちゃんと説明できないからじゃないかと思います。論理的に判断する足がかりがないから感情的にならざるを得ない。そしてますます議論が成り立たなくなる。行き先は揚げ足取りの水掛け論。子どものケンカみたいな強行採決。これが経済大国日本の国会かと思うと我ながらびっくりする。

与党と野党の間にも圧倒的な情報格差があるのだと思います。野党の反対のやり方がひどいという意見も理解出来なくはないけれど、そもそも議論をするために必要な情報がないわけだし、無いことになってる特定秘密を盾に争うわけにもいかないからどうしようもない。「秘密あるだろ!」って追求しても「ない!」で終わりですもんね。

そんなわけで争わなくてもいい人たちが、議論も出来ずただいがみ合うような風潮になってしまっていることはかなりひどいと思うけれども、逆にいうとこの政権のおかげで僕らがいかに「なにも知らされずにいること」にすら気づかずに、どれだけのほほんと暮らしてきたのか、そこにたくさんの人が気づき始めたという一面もあると思う。

歴代総理大臣はもっと狡猾だったからわからなかったことが、安倍晋三の明日なきゴリ押しでボロが出てきたとも言える。

今回の強行採決のゴタゴタで、日本の民主主義(と僕らが思いこんできたもの)は完全に破壊されてしまったけれど、そのことであたらしい世代の民主主義が目覚めるための怪我の巧妙になれば、、、。こんな劣化したやりとりは早くやめてここからでもいいのでとにかくちゃんとした議論をと願うしかない。

選挙権が18歳に引き下げられることは良いニュースだと思う。税収アップを狙った政府が、結果募穴を掘ることになるんじゃないかと思います。子どもたちは余計なしがらみなく大人の振る舞いを冷徹に見ている。そんなに馬鹿じゃない。

それにしてもアメリカには早く法案通せと脅され、一方で国民には言えないことがたくさんあって板挟み。一国の総理大臣がただ一介の中間管理職のようにしか見えない。またお腹が痛くなって仕事をほうりださないように。いやそうしてくれた方がいいのかもしれないけど。

まずはウィキリークス、いろいろ教えてくれ!という気分。

Sunday, June 28, 2015

政治の季節

百田氏という人のとても僕には理解できない発言を聞いて、夜中に考えたことのまとまってないまとめ。備忘録。長いです。

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日本国憲法9条って歴史的な古い建物に似てる気がする。かつての時代の気分で作られていてとても素敵だけど現代の時代からすると使い勝手は少し悪いのかもしれない。

雰囲気は良くても古いものがあちこち現代の生活に合わないという意見が出てくるのは理解できるし、何でもかんでも保存すればよいというものでもない。ただ、世の中には一度壊したら二度と作れないものはたくさんある。時代にあわなければ東大寺もピサの斜塔も壊してガラス張りの高層ビルにすればよいのかというとそんなことはない。

日本の憲法9条は国連(連合国≠アメリカ)に押し付けられたとかいう見方もあるけど、あの純粋無垢な青年のような理想論は、人類史上未曾有の人災としての世界大戦を経験して、みんながヘトヘトに疲弊した後で、こんなことはもう2度としてはいけないという戒めを元に、アメリカ人と日本人の共通の気分の中、あのタイミングだったからこそ奇跡的に実現した人類の理想の結晶だと思う。

日本国民が自力だけで作り上げていないという意味ではイレギュラーかもしれないけど、だいたい予定調和を超えたイノベーションなんてものは事故から生まれるものだ。憲法9条は幸福な事故。進化の過程に現れた突然変異。もう一度つくろうと思ってできるものではない。

そして日本だけでなく世界中のどこの政治システムにも、情勢が硬直している今あれ以上のものを産み出せるとは思えない。もしも改良できるならそれに越したことはないけれど、どうやってもそれ以下になってしまうことが予測されるのだから、であれば憲法9条は簡単に急に改変すべきではない。というのが僕の意見。

一時期、民主党がうだうだしてて「決められない政治」っていうのが問題にされてたけど、そもそも民主主義というのはみんなの意見を尊重しようとするのだからそう簡単にものごとは決まらない。人類が発明した政治システムの中ではもっとも効率が悪いのは明らかだ。効率を求めるなら一番いいのはひとりの人間の判断とトップダウンで決められる独裁制。

独裁の判断が正しければスピーディーだし一番いい。でも、独裁者が間違った場合、あっという間に全員で間違った方向に進んでしまう。国のように図体がでかいと、途中で「あれ、まずいかも!」と気づいてもいったん動き始めたらなかなか止めきれない。そうして70年前に日本は大失敗した。だいたい政治判断が正しいかどうかなんていうことは、その瞬間の同時期にはわからなくてある程度の時間が必要だ。

でも民主主義が機能していたら、基本うだうだしてるから失敗する時も緩やかで方向転換する時間的猶予、判断の正誤を判断する時間も生まれる。効率いい(決められる)けど大失敗するかもしれない可能性を取るか、効率悪い(決められない)けど軌道修正できる可能性を取るか。自分の国がどうなっていくかを考える時に、効率よくてもイチかバチかは危険すぎる。

そんな知恵から民主主義というシステムは地球上のあちこちで、ベストではないかもしれないけどベターなものとして採用されているのだと思う。でも政治ではなく、経済効率を最大限に重視する企業ではトップダウン型のシステムが採用されていることは多い。ハイリターンがあれば、ハイリスクでも構わないという考え方をするから。国の運営とは根本的に違う。

今の自民党政権を批判する時に、軍事独裁政治と直結させて危険という意見もあるけれど、その意味での危険性というかそこまでの意識も知恵も彼らにはないように思う。彼らはファシズムに走ろうとしているというよりも、ただ単に政治にも経済効率を適用していて、手っ取り早い数値的な見返りとして経済の成長を評価軸にしているだけ。だからこそ何も考えずに理念なく暴走している中坊的状況が生まれている。しかしよく考えてみればそちらのほうが危険とも言える。ハイリターンさえ見込めれば、ハイリスクでもいいと考えるから原発だって止めないし、アメリカに追従していたほうがリターンが大きいから基地だってやめないし、戦争にも加担しようとしている。それがどれだけ国民を事故やテロのリスクに晒すことになるか。すでに沖縄の人たちはそういう状況になっているのだけど。

なぜか中枢で調子に乗って政治を語ることになってしまっているエンタメ作家や、そのともだちの政治家たちから発言される言動から長期的なビジョンや理想はまったく聞こえてこない。かつての革命家とは違って軍事的な手法を使って「までも」実現したい理想というのは特にないのだろう。彼らから発せられるのはなんとかミクスというおカネ儲けの話しと、実際儲かってるるんだからいいだろという脂ぎった態度。そして他の国に腕力でナメられたくないというヤンキー的な防衛論ばかりだ。

そもそも嫌韓、嫌中論を唱えるヘイトスピーカーが政権与党の本部でマスコミ排除してまで気勢を上げて盛り上がってるなんて、となりの学校とのケンカの相談してる中学生以下だ。そういう人たちだけで憲法改正を議論されるととても困ってしまう。

ただ、だからといって彼らの論に感情的に反応してしまってはまずい。彼らなりのスジもあるし、こちらの考え方が正しくて向こうは間違っているというような対応のしかただと結局はケンカになって決裂するだけだ。戦争反対!ってみんな言いながらそのやり方が違うといって喧嘩(=戦争)してたら本末転倒以前のギャグにもならない。

僕は韓国や中国にいる友人達のためにもヘイトスピーチなど容認できないし、そのような発言を人前でする人は正直かんべんして欲しいと思う。ただ、品がなくても人は人。センスの無い軽口や、笑えもしない冗談の揚げ足を取ることもしようとは思わない。意見の違いも表現の自由も尊重します。

でも彼らが「勝手に」そして「急に」僕らの生活の根本を変えるのは容認できない。これは絶対的に時間が必要な判断であるにも関わらず、今の政府のやり方はあまりにも急すぎる。

二度と作れない人類の理想論を70年も守ってきた日本を僕はなかなか悪くないと思っています。しかし、今の安倍政権自民党とその同調党派がやろうとしていることは、敗戦(終戦ではなく負け戦)を否定して、100年近い単位で時代を逆行しようとする行為。

タリバンやイスラム国のやり方を、ショッキングな報道を見て野蛮だとみんな思っているかもしれないけど、日本人もほんの100年ちょっと前までは首刈りや切腹もしていたし、偶像破壊(廃仏毀釈)だってしていた。100年といったら僕らの爺さん世代は覚えてるくらいの時代感です。そんな最近まで日本も隣国を挑発しては武力でねじ伏せていた、ビーバップ・ハイスクールみたいな時代がかつてはあったはずです。

本当にそこに戻っていいのかどうなのか。僕はいやだなあ。そんな世界。
人類もいいかげんおとなにならないと。

Friday, March 27, 2015

OUR PARKSにむけて


虎ノ門ヒルズで、「OUR PARKS〜わたしたちの場所をみんなでつくろう」というイベントシリーズの企画を森ビルの人たちと一緒に考えている。「わたしたちの公園」というコンセプトは、去年虎ノ門ヒルズが開業して、イベントの企画をお願いされた時に僕が無い知恵をしぼってサンフランシスコを旅行中に拾ってきた言葉を元に考えたものだ。

その意図は、国内外をあちこち出歩くうちに日本にはどうやら「広場」も「公園」もないんじゃないかということに思い当たったところからでて来た。音楽やイベントを企画することを生業にしているので、たぶん普通の人よりもイベントが開催できるような広い場所や公園に足を運ぶことが僕は多いと思う。ところが海外で開催されるイベントやフェスティバルなどを見ていると何かが違う。

日本にもいわゆる「公園」と名のつく場所はあちこちにあるし、「なにもない広々とした場」も街を見渡せば駅前やら高層ビルの足元にそこら中にある。でも、ヨーロッパやアメリカで見かける「広場や公園」とはやっぱり違う。そんな漠然とした違和感を感じてきた。

その違いとはそこで過ごしている人たちの居ずまいからくるもののようにも思われた。海外の場合は広場に集まることや公園でくつろぐこと、それ自体が目的で集まっている人がほとんどのように見うけられる一方、日本の「広い場所」に居る人々の場合、殆どはそこを通過するだけか、待ち合わせのために居るとか何らか別な目的を持っているように見える。あまり心からくつろいでいる人がたくさんいるようにも思えないフシがあった。

そう思って都市計画や街づくりの本などにあたってみてすぐに理解できた。そもそも「広場」というのは、ギリシャ時代以来の伝統のある西欧の民主主義を象徴する空間であって、その思想を輸入した明治の頃の日本人にとっては西欧への憧れを代表する言葉だったのだ。西欧で人々は教会や市庁舎の前に作られた広場に集まり政治に参加した。「広場」は単なる「空いた土地」ではなく、民衆が議論をするための「場」だった。

そこからもっと時代が下って「公園=パーク」が登場してくる。これはイギリスの市民社会が形成されてから生まれてきたものだ。こちらも市民の権利として、都市の中の良い環境や散歩したりして健康を保つ権利が主張されるようになって出来た。というより市民が積極的に獲得したものがパーク。

どちらも市民の側からの要望で出来上がってきたものだ。「空き地を広場に」し「公園を要望」したのは、王様でも都市計画家でもなくて庶民大衆だった。そんな歴史の経緯があるから市民はみんな広場や公園を、当然のように自分たちのものと考えてくつろいでいるんだろう。

そういう意味だとやっぱり日本にはちゃんとした広場も公園もなさそうだ。日本の都市の広い場所は、ほとんどの場合が都市計画家が様々な制約要因から都市の中にこしらえたものだからだ。みなどこか他人から与えられた場所という感覚があるから落ち着かないのかもしれない。

その場所はいろいろな体裁が整っていたとしても、広場でも公園でもない。やっぱり公園というのはそこに訪れる人々がわたしたちの場として自分で必要と感じて動いた時に初めて立ち現れるるものなのだ。ただの公開空地からわたしたちの場所=公園へ。パブリックプレイスからたくさんの人々の数だけ生まれるわたしたちの公園(アウアーパークス)へ。

というようなあちこち彷徨う考えを経て、これから虎ノ門に開かれた広場でアウアーパークスと名付けられた様々なイベントが始まる。イベントはあくまでもここがわたしたちの公園だと考えるためのきっかけだ。4月からは毎週日曜日にわたしたちの公園で朝ヨガが楽しめるようになる。

虎ノ門という街は周囲に世界各国の大使館や領事館があって、広場や公園と僕ら日本人より上手に付き合える人々が実はたくさん居住している。彼らと一緒にここがわたしたちの公園として楽しめるようになると、この街も国際都市と呼べる街になるのかもしれない。

そして、このイベントシリーズを伝える虎ノ門ヒルズが発行するフリーペーパー”OUR PARKS”も出来た。このタブロイドペーパーはOUR PARKSの開催に合わせていろいろな人が関わって編集して出来たもの。素晴らしい序文は岡本さんにお願いして書いてもらった。もうすぐあちこちで配布されるので見かけたらぜひ手にとって見てほしい。