Sunday, November 4, 2018

舞台の共通言語

誰か教えて!長いので興味があったらどうぞ。

あちこちで舞台に関わるプロジェクトに携わっていてふと思った、もう一つの言語についての覚え書き。とある機会にいろいろ調べていたら面白くなってきたので、詳しい人にぜひいろいろ教えて欲しいと思ったので記しておきます。

舞台制作の世界では、特殊な言語がたくさんある。例えば舞台の左右の表し方。日本の舞台では客席からみて右側を「上手(かみて)」、左側を「下手(しもて)」と呼ぶ。そして奥行きについては、ステージの前のほうを「面(つら)」奥は「奥」という。
http://www.moon-light.ne.jp/termi-nology/

これは上座・下座という日本の文化から来ていて、「身分の高い役を舞台に向かって右に。逆に身分の低い役は左に。」というのが芝居の約束事となり、上手・下手という言葉になったと言われている。

ーー現在でも舞台上に家を建てる場合は、下手に玄関を置くことが多くなっています。また、落語で身分の違いがある人同士の会話の場合、噺家は身分の低い人を演じてる時に上手を見て話し、身分の高い人を演じている時には下手を見て話をするようです。ーー
http://www.moon-light.ne.jp/termi-nology/meaning/kamite-shimote.htm
「8時だョ!全員集合」でも玄関は下手にある。

なるほど。

ステージ上に居る人に指示を出す場合、舞台中央にあるものを客席側から見て右に動かしたい時、そのまま伝えると舞台に立っているひとは向かい合ってるわけだから反対方向に動いてしまう。でも、「上手に」と言えばどっちから見ててもおなじ方向に動かせる。

これは音楽でも演劇でもダンスでもどの現場でも同じ。だから、いろんなジャンルの人が入り交じる現場でも問題は起きない。これらの言葉はもともと能や歌舞伎などの舞台から来てるみたいで、慣れないとわかりづらいんだけど、慣れてしまうとどの舞台でも通じる共通言語があるっていうのは非常に便利。ヘビメタだろうとクラシックだろうと、アングラでも能や歌舞伎でも上手は上手。

それでふと疑問に思った。海外ではどうしてるのか。

というのも、以前とある国でステージの制作に関わった時に、日本人の演出家に通訳が付いていたんだけど、「上手、下手」っていう言葉がわからず「上ってどっちですか?」みたいなことになって混乱したことがあったことを思い出したからだ。ものすごく単純なことなんだけど、これをいちいち緊迫した現場で、しかも異なる母語の人同士でやるとなるとすごくたいへん。

アメリカやオーストラリアでツアーをした時は、日本の舞台には必ず常備されている箱馬という道具(サイズもほぼ決まっている)「的なもの」で台を作って欲しくてリハーサルの時にステージ上でリクエストすると、毎回違う箱が来て困った。ただ、海外では箱馬的なものはアップルボックスといって規格サイズのものがあるので、これは僕のリクエストの仕方が悪かった気がする(その時は呼び方を知らなかった)。

それで、海外で舞台に携わる友人に舞台の共通言語について尋ねたり調べたりしていたらいろいろと興味深いことが見えてきた。

まず、英語だと日本で言う舞台「上手」はstage left。「下手」はstage right。つまり舞台側(演者側)から見て右左で表す。ちなみに「面」はDownstage、「奥」はUpstageという。一般的な右、左、に「ステージ」を付けるから間違いはないんだろうけど、客席から見ると、「ステージレフト」は見た目の右側。ちょっと分かりづらい気がするけど、これも慣れなんでしょう。日本のように役の上で上手が偉いとかそういうことはないんだろうか。
http://www.iar.unicamp.br/lab/luz/ld/C%EAnica/Gloss%E1rios/a_glossary_of_teatre_terms.pdf

それではフランスではなんと言うか。フランス在住のピアニスト中島ノブユキ先輩に聞いてみました。すると、フランスでは「上手」を「côté cour (コテ・クール)王宮側」「下手」を「côté jardin(コテ・ジャルダン)庭側」と呼ぶんだそうな。右左が王宮と庭!!

昔 ルーブル宮殿とチュイルリー公園の間にある「劇場コメディーフランセーズ」 (古くは王立の、現在は国立の由緒ある1600年代からある「劇団コメディーフランセーズ」の本拠地)の立地に由来しているとのこと。ステージに立つと日本で言う上手側にルーブル宮殿があって、下手側にチュイルリー公園があるのだそう。さすがおフランス(笑)やっぱり舞台の歴史のあるところはそれを感じさせる言葉がある。ここでは上手に位の高い人が来る感じがする(実際にそうかどうかはわからない)。

へぇーーー、ということで、今度は台湾の友人に聞いてみたところ、台湾では「上手」のことは「面對舞台右手邊」、「下手」は「面對舞台左手邊」というらしい。中国語を解しないので微妙なニュアンスがわからないけど、日本語の上手、下手も通じるそうなので日本と同じく客席からみて右左を決めてるのかな。でも表し方は英語に近い?中華圏にも上座はあるんだろうか。ありそうだけど。

今の所はこれくらいのことしかわからないんだけど、こういう舞台制作、アートマネージメントの比較文化論みたいなのはすごく興味がある。

音楽の世界で楽器同士がチューニングするための標準ピッチをA=440Hzと決めたのは、産業革命後に蒸気機関が発明されて演奏者が長距離を演奏旅行するようになってから。標準ピッチ制定の10年ほど前にグリニッジ標準時が国際的に決められたのも同じように人が高速で長距離移動することになったからという理由。

現在、これだけ世界中のステージ・コンテンツが交流している割に、舞台制作上の共通言語があまり議論にならないのはどうしてなんだろう。英語圏の表し方がグローバル・スタンダードになってるからでしょうか。ここの国ではこう呼んでるとか、詳しい人とかいたらぜひ教えて欲しいです。


Thursday, July 6, 2017

DON UEMATSU

またひとり大切な人が向こうへ行ってしまった。
僕が鹿児島を出て、はじめてダブルフェイマスとして鹿児島に仕事で帰ったのは20年ほど前。その時ステージの舞台監督をしてくれたのが上松さんだった。てっきり裏方の人だとばかり思っていたら、その日の打ち上げは彼が天文館(鹿児島の繁華街)でやってるバーでやるという。それが<民芸茶寮かねじょう>だった。
ライブが終わって上松さんの店に足を踏み入れるとそこにはダブルフェイマスのファンがぎっしり集まっていた。ライブの時もそれなりに人は集まっていて、正直自分でもビックリしていた。ふつうに考えるとそんなことはありえない。まだインターネットに接続できる人も限られていた時代。ダブルフェイマスなんて活動を始めて間もなかったし、最初のアルバムを出した直後で本当に知る人ぞ知る(知らない人は全く知らない)超マニアックな存在だったからだ。東京ですらそんな状態だし地方にツアーに行ったのもほぼはじめてだった。
なぜそこにそんな人たちがひしめいていたか。それはマスターである上松さんが、自分で僕らのCDを買って夜な夜なかけては「いいだろ!いいだろう!?」と強制的にお客やお店で働いている歴代のバイト君達に「良い」と言わせ(思わせ)、挙句には自主的に仕入れて売りつけ、もっというと自分が好きな人(主に女の子)には「いらない」と言われても強制的に押し付けて持って帰らせてまで盛り上げてくれていたからだ。
その時から何度か鹿児島でライブがあると、かならず上松さんはなにかかにかと理由を付けては裏方として応援してくれた。上松さんの想いあふれすぎた自主プロモーションはその後も僕らが新しいアルバムを出すたびずっと続いた。僕が飲みにいっただけの時にも色んな人のCDを上松さんからもらったので、同じように他のミュージシャンにもしていたんだろうと思う。こうやって応援されたミュージシャンはたくさんいるはずだ。
僕がグッドネイバーズ・ジャンボリーを始めると言い出した時も、すごい心配しながらも全力で応援してくれた。自分に出来ることはこれくらいだからと舞台監督も買って出てくれた。(実際の現場は後輩が回していて、自分は裏でワインばっかり飲んでいたけど)。
そんな上松さんが病気になって店を閉めると言い出したのは3年ほど前になると思う。体調が優れずバーに立てなくなっていた。その時は彼が応援した人たちが交代でカウンターに立ち店を回していた。少し元気があると上松さんも店に来て、カウンターに座ってワインをちびちび飲んでいた。そんな時はさっきまで店で飲んでいたお客さんがカウンターの中に入って上松さんに酒を注いであげたりまでしていた。それほどまでに愛される酒場がそうそうあるだろうか。
そのカウンターの後ろには立派な松の絵が飾られていた。上松さんがいた時、この絵を背にして繰り広げられていた風景には特別なものがあった。<かねじょう>にはみんな酒を飲みに行くというより上松劇場を観に行くというような感じがあったのだ。マシンガンのような鹿児島弁で何言ってるかわからないことも多かったけど、店に行くととにかくお客さん同士をつなげまくって紹介してくれた。そんなふうにして知り合った友人が何人もいる。
店をやめてから何度かお見舞に行った。けれどお見舞いというよりいつも逆に励まされて帰ってくるのだった。「サカグチ君、よくやってるね!君はすごいよ。君はいまのままでいいんだ。よくがんばってる。」療養中だろうがなんだろうがいつも上松さんは上松さんだった。
いまから1週間ほど前。いよいよという時に病院で少しだけ会うことが出来た。僕が名乗り話しかけたら、ふらふらと腕をあげて握手してくれた。元気だったころまくし立てていた口からは言葉にならないかすかな音しか聞こえなかった。でも、僕が手を握ったら衰弱して痩せこけた見た目からは思いがけないほどの力で握り返してきた。僕は病気の上松さんを励ましにいったつもりだったのにまたしても励まされて病室を出た。それが最後だった。
上松さんの体力が弱って店のカウンターに立てなくなってきた頃、なにも出来ない僕はせめてもと彼の為に店でトランペットを吹いたことがある。彼が好きだったキューバの古い伝承曲。底抜けに明るい人だったけれど、裏腹に少し憂いのあるメロウな音楽が大好きだった。
彼の為のお別れの音楽会が開かれることになった。僕らは今度こそ彼の背中を押してあげるために、もう一度彼が愛した音楽を僕らなりに演奏出来たらと思っている。
さようなら
ドン上松
7月26日(水) 鹿児島 CAPARVO HALL
開演 18:00
チケット ¥5,000 1drink 1dish 込み
Don Uemats実行委員会アドレス
nogle@glashaus.co.jp

Wednesday, November 9, 2016

プレジデント・オブ・広告代理店

まったく政治経験のない人間を、アメリカの国民が大統領に選んだっていうのは凄いことだけど、すこし考えるとそんなに驚きはないかもしれない。それは逆説的だけれど彼が政治家でなくてビジネスマンだったからだ。いまや政治家のキャンペーンを広告代理店が請け負うことは当たり前だから、クライアントとして代理店を使い慣れたビジネスマンが戦略的にプロモーションを進めてマーケットシェアを獲得した=大統領選に勝利した、と考えれば理解できないこともない。
彼は大統領になるという目的を達成するために有権者をクールにセグメントに分け、アメリカのマスである白人労働者階級にターゲットを定めた。そして彼らが喜ぶような刺激的な短いワードでウケを狙った。このやりかたはテレビで一発芸を披露するお笑い芸人の売り込み方と良く似ている。
「アメリカを再び偉大にする」というスローガンは、「日本を取り戻す」といって民主党から政権を奪い返した日本の安倍首相とも似ている。勢いだけはいいけれどそれで何を言いたいのかはまったく伝わってこない。そこに政治的な理想とか主義主張は感じられないどころか、その瞬間だけ盛り上がるパンチラインがあって瞬間の株価さえあがれば、むしろそんなものは必要ない。彼の主張からは低所得者層を救いたいというような社会的なメッセージは感じられない。ただ、彼らにウケればいいだけだ。アメリカ第一主義という内向きの主張はEUから離脱したイギリスとも重なる。これが自国の利益だけを死守したい資本主義的先進国のトレンドだから、このへんも世界的な消費者動向を的確に掴んだビジネスマンらしい戦略だ。
メディアに出る時にはイメージ戦略として代理店はスタイリストを雇う。強い主張をする時は赤いネクタイとか、冷静なイメージを作りたい時はネイビーのスーツに青いネクタイとか。その上でトランプにあの田舎のおっさんみたいな髪型や格好をさせていたのは、完全に南部や工業地帯の普通のおっちゃんたちをターゲットにしたからだとすると凄まじい戦略だと思う。トランプ自身は裕福な北部の出身なのに、狙い通りトランプを支持したのはかつての南北戦争で負け組に回って以降アメリカで虐げられてきた南部を中心とする白人層(当時の北軍側の東や西の沿岸部の州ではヒラリーが勝っている)だった。通ってしまえばそれでいいので、これからはあんなに過激な物言いは控えてエスタブリッシュメントにも一目置かれるるようにしていくだろうし、それに合わせてファッションスタイルも少しずつ変えてくるだろう。
あともうしばらくするとアメリカは有色人種の人口が白色人種を上回るといわれている。セレブ頼みだったヒラリーの戦略的な敗北(大統領選に出るまではトランプのほうがセレブ的だった)ということもあるけれど、この結果はマイノリティに転落しつつある白人層と、制度疲労をおこしてゆるやかに終わりに向かっているアメリカ資本主義の最後の断末魔だ。今回はただ端的にそこにうまくプロモーションした方が勝った。アメリカの政治に突然表れたゴジラは金髪でおかしな髪型をしていた。そしてマーケティングが世界一の超大国の大統領を作り出してしまった。その結果がこの世界にどういう影響を与えるのかはまだわからない。

Wednesday, February 10, 2016

No.9



国会の憲法改正の議論の中で、安倍総理が「(日本国憲法は)一部の左翼的傾向の強い思想を持つGHQのアメリカ軍人の手によって作られ、日本に押し付けられた(※)」という過去の発言に対して、これは政権与党の総意であり、この説明で国民は納得していると堂々と発言していた。

たしかに、今の憲法の草案は、理想に燃えた平和主義者が米軍内にいて、彼らと日本人も参加して短期間で作った草案を、アメリカは日本にプレゼントした。というのは概ね事実だ。

国会で安倍総理は民主党の論拠を「弱々しい」と退け、自らの論調を振りかざして論破しているように見える。確かに民主党の追求は弱い。改正するのしないの、思考停止だのという言葉はどうでもいいけど、どこをどう改正するかという細かい議論までなかなか踏み込めない。与党はそれはここで議論すべきじゃないと言う。じゃあどこで議論するんだろうと思うけれども、みんながジャケットの上から蚊に刺されたところを掻くように改正するしないと議論してるのは、最終的にはもちろん憲法9条のことのはずだ。憲法の成立過程は事実だとしてもよく考えたらすごい表現の仕方をするものだなと思う。そして、この堂々たる自信を裏で支えているのはなんだろうと思った。


いくら70年前のはなしだといえ占領国の憲法を、アメリカ軍内部の「一部の左翼的な思想」を持った人間が作って押し付けられたって、首相が国会で発信することなんだろうか。自民党は歴代の総裁たちも同じようなことは言ってはいたけどここまで直接的ではなかったように思う。安倍氏のいう左翼的なというのはニューディーラー(※2)の事を指していると思うけれど、左翼じゃ悪いのか?とかいったことは置いといたとして、「一部の」とわざわざ言うからには、これが当時もアメリカの総意ではなかったと言っているわけだから、真っ向から同盟国アメリカという国の正統性を否定している。そしてそれが自民党の総意だと言う。

もしこれが原子投下は当時の一部のアメリカの急進的な軍人が〜〜〜などと発言したら大変な事になると思う。アウシュビッツと並ぶ戦争犯罪をアメリカは未来永劫正当化しなければならないから、あれがアメリカの総意でなかったとは言えないからだ。

ところが平和憲法に関しては、逆に良いことをしてくれたはずなのに、なんにも言わない。長期政権をとった日本の総理大臣は間違いなく親米的であるのに、どうしてこういう発言が可能になるんだろう?と不思議に思う。(この件に関するアメリカの反応は僕が見落としているだけかもしれないけど、そんなに報道もされていないと思うのでその程度の扱いなのか…)。

つまるところ、10年近く前に出された安倍氏のこの発言のもとになる日本の憲法改正議論について、アメリカが大して問題にせず、スルーしているように見えるのは、そこにアメリカの一環したメッセージが隠されているからなのだと思う。

それは、「あの時は平和憲法なんて押し付けて悪かった。事情が変わったのだから、もうやめよう。憲法を改正して一緒に戦争に参加しよう。」というものだ。

70年前のアメリカは、単に占領政策を円滑にするために平和憲法によって日本を縛った。マグマのように恨みのエネルギーを溜め込み、復興を成し遂げたのち再軍備して立ちはだかってくることを避けるために、平和憲法という大義名分を「押し付け」ただけなのだ。結果として日本は、その後70年間一度も国家として他国人を殺さなかった唯一の先進国になったけれど、別にそこまでアメリカが望んだわけじゃない。

ところが、今のアメリカは日本にはイスラムと戦う有志連合に参加して欲しいと考えている。あの時と違ってアメリカは1国で世界の警察となることに疲れはてていて、経済力や技術力、潜在的な軍事力に長けている日本にはアメリカの戦争をフィジカルに応援してほしい。いまさら日本が共産化してアメリカに歯向かう心配は無さそうだし、第二次大戦後当時とは事情(敵)が変わったのだから、一日も早く日本は体制を変えて対応してもらいたい。

しかし、それが出来ないように縛られているのは、その理由が他でもないアメリカ自身が「押し付け」た憲法によるものだからだ。表向きアメリカがそれを改正せよとは言うわけにはいかない。さすがにアメリカが自分であの時のアレは一部の左翼的な軍人が作ったもので、などとは言えないからだ。思っていたよりも日本人が平和憲法を頑なに守るものだから、ちょっと困っているというのは言い過ぎではないのじゃなかろうか。

アメリカは賢いので、日本に平和憲法を押し付けたことの間違いをかなり早い段階から理解していたと思う。平和憲法まで作って縛り付けなくても、天皇制を護持してあげただけで、これまた意外と日本人はそれ以上の反抗をアメリカに対してしなかったからだ。

だから朝鮮戦争後の1955年(60年も前)には早々に自民党の結党を支援して(※2)政権につけた。あまつさえその口から当時のアメリカの悪口を言わせてでも憲法改正に後押しをしている。もしアメリカが今も憲法改正を望んでいなかったら、占領国日本の総理大臣のこのような発言がスルーして許されることはない。普通は抗議してくるはずだ。

自民党結党以来の悲願、憲法改正というのはこういう構造であって、安倍首相はそれをあたかも自分の信念のように語っているけれど、結局アメリカの本音を代弁させられているにすぎないんじゃないか。「日本人の誇り」とか言えば言うほど、釈迦の手の上で暴れる孫悟空のように見える。自分の国のトップのふるまいとしてはとっても残念だ。

安倍首相が言うように、憲法を自国民の手で議論して作りなおそうという意見には別に異論はない。けれども、彼が今がやろうとしていることは、実はあの時と同じで結局アメリカの望むかたちに日本を変えようとしているだけだ。今回は「押し付けられた」とは感じさせないように、巧妙に誘導されているだけなのだ。

日本の平和憲法は、当時のアメリカの政治戦略的な思惑と、その条文作成に関わった担当者の倫理的な理想と原爆の贖罪、そしてもちろん日本人の平和への希求、それらがたまさか一致して出来上がった世界史的な奇跡で、人類史上初の快挙(今のアメリカにとっては当時うっかり認めちゃった誤り)。これは今となっては日本にとってはとても幸運なことだったと考えざるを得ない。歴史の幸福なポテンヒットとでも言えるかもしれない。

だからこそこの構造は今は絶対に崩してはいけないと思う。安倍氏は「天から降ってきたものだから指一本変えてはならない、なんてのはおかしい」と言っているけど、9条の場合は幸運にも「天から降ってきたもの」だから、変えちゃいけないのだと思う。

理想論だけでは絶対にこんな憲法は実現しないのだから、一度壊したら今後もう2度とこのような状況が生まれることは考えられない。可能性があるとすると、先の大戦よりも酷いカタルシスの後にはもう一度こういうことがあるかもしれない。しかしそれでは遅すぎる。

すでに始まっている第三次大戦の世界にあって(というより、現在の紛争の種はすべて第一次と呼ばれている戦争の時から続いているので、最初の大戦から現在まで世界はずっと世界大戦状態だとも言えるけれど)いままで誰も経験したことのないような巨大な破壊はこのままだと目前の可能性も大いにある。

だから僕ら日本人には、平和憲法を70年以上も変えずに保持してきたモデルケースとして、この奇跡を今後も守り続ける義務が、未来の全人類に対してある。と思っています。

※1)雑誌『正論(平成1611月号)』での、安倍晋三氏(衆議院議員)、桜井よしこ氏(ジャーナリスト)、八木秀次氏(高崎経済大学助教授)の鼎談
“今こそ〝呪縛〝憲法と歴史〝漂流〝からの決別を”

※2)戦後日本の占領期において、GHQ民政局にはニューディーラーが多かったとされる。



※3)結成直前の1954年(昭和29年)から1964年(昭和39年)まで、アメリカ合衆国(以下米国、具体的にはホワイトハウスおよびアメリカ合衆国国務省)の反共政策に基づいて中央情報局(CIA)の支援を受けていたことが後年明らかになった[8][9]。(wikipediaより)

Thursday, September 24, 2015

強行採決について

彼らはなぜここまで強行にものごとを進めようとするのだろう。をぼんやり考える。

僕程度の普通(以下)の頭で考えてもおかしなことが多すぎる。逃げ切りで強行採決なんてもってのほかではあるけど、とにかく国会運営の劣化がひどい。与党も野党ももっと正々堂々とやればいいのに。子ども達も見てるんだから。

国民の理解が進んでいないということに関して、政権が説明責任を果たしていないという批判があるけれど、「法案が可決したら国民はそのうちわかる」というようなことを言っているくらいだから、そもそも安倍総理にはこの法案をこうまでして強引に進めなければいけない理由を説明をする気などなかったと思う。

国民の理解がなかろうと違憲だろうと突き進むのは、彼らにしか見えていない風景があって、それを国民に正直に説明しちゃうとまずいってことがたくさんあるからなんでしょうね。

戦後長きにわたって自民党と官僚が一党独裁体制の中でやってきた、もういまさら国民にしゃべっちゃうとパニックになるようなことはたくさんあるはず。そりゃもう、安倍家は祖父の代から絶対外では話せない、そんなものないことになってる密約とかワンサカあるんじゃないかな。

民主党政権の時にちょっとバレそうになったけど、政権を取り返してから作った特定秘密保護法によってこれからも明らかになることもない。 だから「日本をとりかえす」っていうスローガンだったのか。説明の仕方に問題があるんじゃなくて、そもそも説明なんて出来ないんでしょう。

ということなんで安保に関する十分な説明はこれからもされないのだろうと僕は思います。ただ、既成事実だけが積み重ねられていく。そして事実に対して反対することも難しくなっていく。というのが最悪のシナリオです。そうならないことを祈りますが。
戦争法案という言い方に対して、第2時大戦のようなことにはすぐにはならないと思うけど、テロとの戦いにはなっていくので、これから海外へ出かけるのはどんどん要注意になっていくのかと思うと…。

というわけで、国民の8割が納得してないまま法案だけが通ってしまったわけだけれど、8割ということは法案賛成者もいまいちよくわからないまま採決してしまったという状態です。

結局自民党は強行採決の根拠もそれに対する批判にもちゃんと答えていないけど、同時に法案賛成派にも十分な説明を与えていない。結果、安保法案推進派も情緒的、イデオロギー的に法案について賛成していても、論理的にこの法案の必要性を説明出来る人がほとんどいない、つまりは拠り所がどこか薄いままに支持しているということになってしまっているように思えます。違憲だという指摘に対して合憲性を誰もちゃんと答えられていない。

この法案に対する推進派と反対派のお互いに対するヒステリックな反応は、賛成派ですらなんでこの法案を通さなければいけないのかその根拠をちゃんと説明できないからじゃないかと思います。論理的に判断する足がかりがないから感情的にならざるを得ない。そしてますます議論が成り立たなくなる。行き先は揚げ足取りの水掛け論。子どものケンカみたいな強行採決。これが経済大国日本の国会かと思うと我ながらびっくりする。

与党と野党の間にも圧倒的な情報格差があるのだと思います。野党の反対のやり方がひどいという意見も理解出来なくはないけれど、そもそも議論をするために必要な情報がないわけだし、無いことになってる特定秘密を盾に争うわけにもいかないからどうしようもない。「秘密あるだろ!」って追求しても「ない!」で終わりですもんね。

そんなわけで争わなくてもいい人たちが、議論も出来ずただいがみ合うような風潮になってしまっていることはかなりひどいと思うけれども、逆にいうとこの政権のおかげで僕らがいかに「なにも知らされずにいること」にすら気づかずに、どれだけのほほんと暮らしてきたのか、そこにたくさんの人が気づき始めたという一面もあると思う。

歴代総理大臣はもっと狡猾だったからわからなかったことが、安倍晋三の明日なきゴリ押しでボロが出てきたとも言える。

今回の強行採決のゴタゴタで、日本の民主主義(と僕らが思いこんできたもの)は完全に破壊されてしまったけれど、そのことであたらしい世代の民主主義が目覚めるための怪我の巧妙になれば、、、。こんな劣化したやりとりは早くやめてここからでもいいのでとにかくちゃんとした議論をと願うしかない。

選挙権が18歳に引き下げられることは良いニュースだと思う。税収アップを狙った政府が、結果募穴を掘ることになるんじゃないかと思います。子どもたちは余計なしがらみなく大人の振る舞いを冷徹に見ている。そんなに馬鹿じゃない。

それにしてもアメリカには早く法案通せと脅され、一方で国民には言えないことがたくさんあって板挟み。一国の総理大臣がただ一介の中間管理職のようにしか見えない。またお腹が痛くなって仕事をほうりださないように。いやそうしてくれた方がいいのかもしれないけど。

まずはウィキリークス、いろいろ教えてくれ!という気分。

Sunday, June 28, 2015

政治の季節

百田氏という人のとても僕には理解できない発言を聞いて、夜中に考えたことのまとまってないまとめ。備忘録。長いです。

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日本国憲法9条って歴史的な古い建物に似てる気がする。かつての時代の気分で作られていてとても素敵だけど現代の時代からすると使い勝手は少し悪いのかもしれない。

雰囲気は良くても古いものがあちこち現代の生活に合わないという意見が出てくるのは理解できるし、何でもかんでも保存すればよいというものでもない。ただ、世の中には一度壊したら二度と作れないものはたくさんある。時代にあわなければ東大寺もピサの斜塔も壊してガラス張りの高層ビルにすればよいのかというとそんなことはない。

日本の憲法9条は国連(連合国≠アメリカ)に押し付けられたとかいう見方もあるけど、あの純粋無垢な青年のような理想論は、人類史上未曾有の人災としての世界大戦を経験して、みんながヘトヘトに疲弊した後で、こんなことはもう2度としてはいけないという戒めを元に、アメリカ人と日本人の共通の気分の中、あのタイミングだったからこそ奇跡的に実現した人類の理想の結晶だと思う。

日本国民が自力だけで作り上げていないという意味ではイレギュラーかもしれないけど、だいたい予定調和を超えたイノベーションなんてものは事故から生まれるものだ。憲法9条は幸福な事故。進化の過程に現れた突然変異。もう一度つくろうと思ってできるものではない。

そして日本だけでなく世界中のどこの政治システムにも、情勢が硬直している今あれ以上のものを産み出せるとは思えない。もしも改良できるならそれに越したことはないけれど、どうやってもそれ以下になってしまうことが予測されるのだから、であれば憲法9条は簡単に急に改変すべきではない。というのが僕の意見。

一時期、民主党がうだうだしてて「決められない政治」っていうのが問題にされてたけど、そもそも民主主義というのはみんなの意見を尊重しようとするのだからそう簡単にものごとは決まらない。人類が発明した政治システムの中ではもっとも効率が悪いのは明らかだ。効率を求めるなら一番いいのはひとりの人間の判断とトップダウンで決められる独裁制。

独裁の判断が正しければスピーディーだし一番いい。でも、独裁者が間違った場合、あっという間に全員で間違った方向に進んでしまう。国のように図体がでかいと、途中で「あれ、まずいかも!」と気づいてもいったん動き始めたらなかなか止めきれない。そうして70年前に日本は大失敗した。だいたい政治判断が正しいかどうかなんていうことは、その瞬間の同時期にはわからなくてある程度の時間が必要だ。

でも民主主義が機能していたら、基本うだうだしてるから失敗する時も緩やかで方向転換する時間的猶予、判断の正誤を判断する時間も生まれる。効率いい(決められる)けど大失敗するかもしれない可能性を取るか、効率悪い(決められない)けど軌道修正できる可能性を取るか。自分の国がどうなっていくかを考える時に、効率よくてもイチかバチかは危険すぎる。

そんな知恵から民主主義というシステムは地球上のあちこちで、ベストではないかもしれないけどベターなものとして採用されているのだと思う。でも政治ではなく、経済効率を最大限に重視する企業ではトップダウン型のシステムが採用されていることは多い。ハイリターンがあれば、ハイリスクでも構わないという考え方をするから。国の運営とは根本的に違う。

今の自民党政権を批判する時に、軍事独裁政治と直結させて危険という意見もあるけれど、その意味での危険性というかそこまでの意識も知恵も彼らにはないように思う。彼らはファシズムに走ろうとしているというよりも、ただ単に政治にも経済効率を適用していて、手っ取り早い数値的な見返りとして経済の成長を評価軸にしているだけ。だからこそ何も考えずに理念なく暴走している中坊的状況が生まれている。しかしよく考えてみればそちらのほうが危険とも言える。ハイリターンさえ見込めれば、ハイリスクでもいいと考えるから原発だって止めないし、アメリカに追従していたほうがリターンが大きいから基地だってやめないし、戦争にも加担しようとしている。それがどれだけ国民を事故やテロのリスクに晒すことになるか。すでに沖縄の人たちはそういう状況になっているのだけど。

なぜか中枢で調子に乗って政治を語ることになってしまっているエンタメ作家や、そのともだちの政治家たちから発言される言動から長期的なビジョンや理想はまったく聞こえてこない。かつての革命家とは違って軍事的な手法を使って「までも」実現したい理想というのは特にないのだろう。彼らから発せられるのはなんとかミクスというおカネ儲けの話しと、実際儲かってるるんだからいいだろという脂ぎった態度。そして他の国に腕力でナメられたくないというヤンキー的な防衛論ばかりだ。

そもそも嫌韓、嫌中論を唱えるヘイトスピーカーが政権与党の本部でマスコミ排除してまで気勢を上げて盛り上がってるなんて、となりの学校とのケンカの相談してる中学生以下だ。そういう人たちだけで憲法改正を議論されるととても困ってしまう。

ただ、だからといって彼らの論に感情的に反応してしまってはまずい。彼らなりのスジもあるし、こちらの考え方が正しくて向こうは間違っているというような対応のしかただと結局はケンカになって決裂するだけだ。戦争反対!ってみんな言いながらそのやり方が違うといって喧嘩(=戦争)してたら本末転倒以前のギャグにもならない。

僕は韓国や中国にいる友人達のためにもヘイトスピーチなど容認できないし、そのような発言を人前でする人は正直かんべんして欲しいと思う。ただ、品がなくても人は人。センスの無い軽口や、笑えもしない冗談の揚げ足を取ることもしようとは思わない。意見の違いも表現の自由も尊重します。

でも彼らが「勝手に」そして「急に」僕らの生活の根本を変えるのは容認できない。これは絶対的に時間が必要な判断であるにも関わらず、今の政府のやり方はあまりにも急すぎる。

二度と作れない人類の理想論を70年も守ってきた日本を僕はなかなか悪くないと思っています。しかし、今の安倍政権自民党とその同調党派がやろうとしていることは、敗戦(終戦ではなく負け戦)を否定して、100年近い単位で時代を逆行しようとする行為。

タリバンやイスラム国のやり方を、ショッキングな報道を見て野蛮だとみんな思っているかもしれないけど、日本人もほんの100年ちょっと前までは首刈りや切腹もしていたし、偶像破壊(廃仏毀釈)だってしていた。100年といったら僕らの爺さん世代は覚えてるくらいの時代感です。そんな最近まで日本も隣国を挑発しては武力でねじ伏せていた、ビーバップ・ハイスクールみたいな時代がかつてはあったはずです。

本当にそこに戻っていいのかどうなのか。僕はいやだなあ。そんな世界。
人類もいいかげんおとなにならないと。

Friday, March 27, 2015

OUR PARKSにむけて


虎ノ門ヒルズで、「OUR PARKS〜わたしたちの場所をみんなでつくろう」というイベントシリーズの企画を森ビルの人たちと一緒に考えている。「わたしたちの公園」というコンセプトは、去年虎ノ門ヒルズが開業して、イベントの企画をお願いされた時に僕が無い知恵をしぼってサンフランシスコを旅行中に拾ってきた言葉を元に考えたものだ。

その意図は、国内外をあちこち出歩くうちに日本にはどうやら「広場」も「公園」もないんじゃないかということに思い当たったところからでて来た。音楽やイベントを企画することを生業にしているので、たぶん普通の人よりもイベントが開催できるような広い場所や公園に足を運ぶことが僕は多いと思う。ところが海外で開催されるイベントやフェスティバルなどを見ていると何かが違う。

日本にもいわゆる「公園」と名のつく場所はあちこちにあるし、「なにもない広々とした場」も街を見渡せば駅前やら高層ビルの足元にそこら中にある。でも、ヨーロッパやアメリカで見かける「広場や公園」とはやっぱり違う。そんな漠然とした違和感を感じてきた。

その違いとはそこで過ごしている人たちの居ずまいからくるもののようにも思われた。海外の場合は広場に集まることや公園でくつろぐこと、それ自体が目的で集まっている人がほとんどのように見うけられる一方、日本の「広い場所」に居る人々の場合、殆どはそこを通過するだけか、待ち合わせのために居るとか何らか別な目的を持っているように見える。あまり心からくつろいでいる人がたくさんいるようにも思えないフシがあった。

そう思って都市計画や街づくりの本などにあたってみてすぐに理解できた。そもそも「広場」というのは、ギリシャ時代以来の伝統のある西欧の民主主義を象徴する空間であって、その思想を輸入した明治の頃の日本人にとっては西欧への憧れを代表する言葉だったのだ。西欧で人々は教会や市庁舎の前に作られた広場に集まり政治に参加した。「広場」は単なる「空いた土地」ではなく、民衆が議論をするための「場」だった。

そこからもっと時代が下って「公園=パーク」が登場してくる。これはイギリスの市民社会が形成されてから生まれてきたものだ。こちらも市民の権利として、都市の中の良い環境や散歩したりして健康を保つ権利が主張されるようになって出来た。というより市民が積極的に獲得したものがパーク。

どちらも市民の側からの要望で出来上がってきたものだ。「空き地を広場に」し「公園を要望」したのは、王様でも都市計画家でもなくて庶民大衆だった。そんな歴史の経緯があるから市民はみんな広場や公園を、当然のように自分たちのものと考えてくつろいでいるんだろう。

そういう意味だとやっぱり日本にはちゃんとした広場も公園もなさそうだ。日本の都市の広い場所は、ほとんどの場合が都市計画家が様々な制約要因から都市の中にこしらえたものだからだ。みなどこか他人から与えられた場所という感覚があるから落ち着かないのかもしれない。

その場所はいろいろな体裁が整っていたとしても、広場でも公園でもない。やっぱり公園というのはそこに訪れる人々がわたしたちの場として自分で必要と感じて動いた時に初めて立ち現れるるものなのだ。ただの公開空地からわたしたちの場所=公園へ。パブリックプレイスからたくさんの人々の数だけ生まれるわたしたちの公園(アウアーパークス)へ。

というようなあちこち彷徨う考えを経て、これから虎ノ門に開かれた広場でアウアーパークスと名付けられた様々なイベントが始まる。イベントはあくまでもここがわたしたちの公園だと考えるためのきっかけだ。4月からは毎週日曜日にわたしたちの公園で朝ヨガが楽しめるようになる。

虎ノ門という街は周囲に世界各国の大使館や領事館があって、広場や公園と僕ら日本人より上手に付き合える人々が実はたくさん居住している。彼らと一緒にここがわたしたちの公園として楽しめるようになると、この街も国際都市と呼べる街になるのかもしれない。

そして、このイベントシリーズを伝える虎ノ門ヒルズが発行するフリーペーパー”OUR PARKS”も出来た。このタブロイドペーパーはOUR PARKSの開催に合わせていろいろな人が関わって編集して出来たもの。素晴らしい序文は岡本さんにお願いして書いてもらった。もうすぐあちこちで配布されるので見かけたらぜひ手にとって見てほしい。









Monday, March 17, 2014

藤巻さんのこと

2010年。当時僕が所属していた会社トランジット・ジェネラル・オフィスの顧問をしていた藤巻さんから、あいつは地方に強そうだからということで、僕に新宿の伊勢丹の催事場を使った地方をテーマにしたイベントの企画をするようにと声がかかった。
当初の方向性としては鹿児島や九州のモダンな物産展がいいのではないかということになり、その最初の打ち合わせに呼び出されたのは2010年の大晦日。僕は藤巻さんからの強い希望があったのでランドスケープの中原くんに声をかけて一緒に新宿伊勢丹にその打ち合わせに行った。そこから何度かのやりとりを経て、まとめた企画のプレゼンをしに行く予定日は2011年の3月11日の夕方だった。
ところが2時過ぎにあの震災が起きた。当然その日のプレゼンは中止。その頃僕が手がけていた他のイベントもすべて中止や無期限延期になり、伊勢丹の企画自体も無くなったと思っていた。
改めて伊勢丹から連絡が来て、企画がふたたび動き出したのは震災からひと月以上経った頃。その時には僕は音楽家としてジェーン・バーキンとの出会いもあり今自分が東京でやるべき事は九州や鹿児島のことではないと思っていた。自分たちに出来る事が見えず悶々と考えていた時だった。
そんな時、益子でものづくりをしているみなさんが大変なことになっているという情報を中原くん経由で知った。直感的にそこに自分に出来る仕事があるように感じて、まず最初に益子の陶芸家の田村くんから現状を聞き、それから中原くん、編集者の柴田くん、田村くんとスターネットの馬場さん経由で僕は益子と笠間のたくさんの作家さん達に出会うことになった。
この出会いは最終的に2011年の秋新宿伊勢丹で「KASAMA∞MASHIKO展」という企画になり、この展覧会を、自分が所属していた会社を越えて中原くんのランドスケーププロダクツと一緒にプロデュースすることになる。笠間益子のみんなで協力して作り上げた、新宿伊勢丹のKASAMA∞MASHIKO展は展覧会としては大成功に終わり、その後僕がランドスケーププロダクツに合流する流れのひとつになった。
展覧会が終わった後、別件で藤巻さんにお会いした時に結果を報告したところ、心から嬉しそうにしてくれた。どれくらい嬉しそうだったかというと、その場で知り合いだという笠間市のある茨城県の副知事の携帯に電話をかけて電話越しに僕を紹介してくれたくらい喜んでくれたのだった。
僕は当時の所属会社ではマイペースに粛々と仕事をしていたので(今でもそうだが...)藤巻さんからお褒めの言葉なんていただいたのはこれが最初で最後のことになった。
この展覧会をきっかけに僕は益子と笠間に通い詰め、この地に今も続くかけがえのない友人がたくさんできた。その友人たちの多くを紹介してくれたスターネットの馬場さんは昨年亡くなった。
そして昨日、僕がそれまでなんの縁もなかった益子と笠間という街に向けて狂ったように走りだすそもそものきっかけを作ってくれた藤巻さんが突然帰らぬ人となった。不義理が続きここ最近の体調など全く知らなかったので、青天の霹靂とはこのことでいまだよく分からないでいる。
あの時藤巻さんからの理不尽なくらいのキラーパスがなかったら、僕に益子や笠間の友人はいなかった。今ここにもいないかもしれない。彼にとってはささいなバタフライ・エフェクトのような話しかもしれないけれど僕にとってはとても大きな蝶の羽ばたきだった。改めて本当に感謝しています。ものすごいスピードで走り続けた54年だったのだろうと思います。ゆっくりお休みください。ありがとうございました。

Friday, January 11, 2013

音のいない世界で

まだギプスに固められ鈍く痛む重い足を引きずりながら新国立劇場へ行ってきた。新国立へ行くのは2010年に近藤良平さんのダンス公演に参加させてもらって毎日通っていた以来のような気がするから丸3年ぶりになる。

観てきたのはやはり近藤さんが出演している舞台「音のいない世界で」。近藤さんは先日イワトの僕らのライブに来てくれた時この舞台の話しをきかせてくれた。まがりなりにも音に関わる活動をしている身としては、音がテーマの舞台に近藤さんも関わっていて演出は長塚圭史、共演陣もバレエダンサーの首藤康之、女優の松たか子というのは興味をそそられないはずもない。

 事前にいろいろ情報を入れてからとも思ったけど、とにかくまっさらな状態で舞台を観たいと思ったので公開されているあら筋も見ないようにしてひとりで出かけた。 今はちょっとした移動にも時間がかかるので余裕を持って劇場に行った。劇場内をギクシャク歩いていると係の人や周りの人が気を使って手を貸してくれそうになるのだが、ただ歩きづらいだけで自分的には他にどうということもなく、逆に気を使ってしまうので開場とともに席につきそのまま終わるまでじっと座っていた。 落ち着きのないほうなので自分的にはこれはかなりめずらしい。

足が気になる分余計なことをなにも考えず舞台に集中出来たので良かった。どこかに不具合を抱えて普段と違う状態にあると、いままで気付かなかった自分の癖に気づいたりする。いままではこういう時1〜2時間じっと座っているのが本当はいやだったのか、始まるまで必要もないのにロビーにいってみたりトイレに立ったりばたばた落ち着かなかったことか。

 舞台の中身についてはまだ公演は続いているし、ネタばれは避けたほうがいいので触れないが、とても見ごたえがあってよかった。特に音響まで含めた舞台装置のアイデアと使い方は見事だった。途中なぜかブラッドベリの「華氏451度」をふと思い出した。ブラッドベリよりももっと可愛らしい話しでストーリーも好みだった。 演出の妙も楽しめたし、「役者」と「ダンサー」がジャンルを超えて共演しているというところもよかった。ジャンルは違っても身体をもって表現するという部分は同じ。その共通項をうまく重ねあわせながら違いを楽しむようなところが面白い効果を出していたと思う。

 近藤さんとの出会いもあってここ数年僕の関心は、音楽のステージを超えてどんどんパフォーミング・アーツのほうへ向かっている。ああいう演出されたステージを作ってみたいと思ったりする。2008年にガーデンホールで大きくワンマンライブをやったときは限られた予算と時間の中で普通はやらないような演出をいろいろと試したけど、もっと小さな小屋でもやれることはいろいろある。一昨年の暮れにダンサーの康本雅子さんとDouble Famousで共演したような取り組みはもっとやりたいなと思う。 いろいろと刺激をもらう舞台だった。

 http://www.nntt.jac.go.jp/play/20000597_play.html

Thursday, December 20, 2012

走れサカグチ

ちょっと前まで自分がランニング進んでやるようになるなんて思ってもいなかった。いつまで続くか分からないが今のところ週2〜3回のペースで家の周りを5〜6キロ走っている。時間にして約30分ほど。その日の仕事から帰ってきて夜走る。

 時折通っていたジムを辞めて突然外を走り始めたのはここ3ヶ月くらいのことだ。 つい最近、ここ数年は毎日走っているという尊敬するDJ.松浦さんとご飯を食べていた時に外を走ることの気持よさをこんこんと説かれた。周りには他にも走っている人はたくさんいたので、いままでいろんな人から一緒に走ろうとか誘われてはいたものの、街を走るジョガーを見るにつけ、なんだか運動不足解消に外を走るっていうのはヤッピーのおじさんみたいでどこか恥ずかしいと思っていた。

なのにその時だけは、そういえばジムもサボりがちだし散歩がわりにちょっと走ってみてもいいかなと思った。なぜだかはわからない。 これまでも時々ジムに行くとトレッドミルで走ってはいた。でもあのトレッドミルというやつはテレビでも見ながらじゃないと飽きてしまってあまり長距離走る気にはなれない。運動しているいる時は余計なことはあまり考えないから目の前のテレビのどうでもいいギャグがダイレクトに刺さってつい笑ってしまう。部屋の中でドタドタ走りながらニヤニヤ笑っている自分にはたと気づくと、誰に見られているわけでもないのにこれがまたとても恥ずかしい。 

それはたぶん自分がかごの中でしゃかりきに走るハムスターのように思えるからだ。運動不足で重たい体をジタバタさせながらテレビみてケタケタ笑ってるなんて...。間違いなく運動をしているはずなのに、自分が晒しているのは運動の不足ばかり。 

そんなこともあってランニングにはどちらかというとネガティブなイメージしかなかった。でも変化は突然訪れる。  松浦さんもああ言っていたし、まあ散歩代わりにとそれまで街歩きに使っていたスニーカーを履いて家の玄関を出て走り始めてすぐ、外を走るということの意味が分かった気がした。

これまで何年も駅へ向かう為に歩くか、車で出かけて運転席から眺めるかしかなかった時とは全く違った風景が目に飛び込んできた。 それは見飽きた時速2〜3kmの徒歩の世界と、時速40kmオーバーの自動車の車窓から見る世界の間に広がる風景。道具(自転車)を使って走るのともまた違う。 

iPhoneのアプリを使って走るとGPSによって逐一キロ何分で走っているか分かる。駅までの距離も走りながらだと思っていたよりも全然近く感じる。逆に今まで車でしか行かなかった2〜3駅先の場所でも20分も走れば着いてしまったりする。 

こうして時間と距離を意識しながら走っていると、今の自分の足でどこまで行けるかということがだんだん感覚的に掴めるようになってくる。2駅先までは15分あれば走れるとか、折り返さずにそのまま走ればあのあたりまで行けそうだとか。

行きたいところがあれば自分の足で走っていけばいい。電車も自動車もいらない。この感覚はひさびさに味わう自由だった。生活に必要なものを自らの手仕事でなんでも作ってしまうクラフトマンのような感覚。 

都市で暮らしていると、移動には常にコストがかかる。だから同じお金でいかに元をとるか、楽に移動出来るかというコストパフォーマンスのことばかり考えだす。電車の中で椅子取りゲームが繰り広げられるのも、同じ電車賃でいかに楽に移動するかというコストパフォーマンス意識のあらわれだ。 

しかし自分の足で移動している分にはコストはかからない。ガソリンとしての食費はかかるけど、走らなくたって腹は減るから走るためのコストとは違う。それもまた自由だ。

 周りの友達はどんどんフルマラソンや100kmマラソンに挑戦したりしている。もうちょっとがんばれば100kmくらいは走れそうだ。100kmマラソンを14回繰り返せば1400km離れた地元鹿児島にだって自分の足だけで帰れる。 さすがにそれはやらないだろうけど「そんなの絶対に無理」と思っているのと、「このままがんばれば行ける(かもしれない)」と思えることの間にはまさに千里の径庭がある。

年を重ねるごとに少しずつ減ってくる、可能性の3文字を自分の足元に見つけた気分なのだ。 これがみんながはまる外を走ることの意味だったのかと思う。違うかな。




Sunday, October 7, 2012

SUMING



今日は台湾の少数民族アミ族のアーティスト、スミンくんのライブに行って来た。会場は吉祥寺のキチム。

今日のイベントはスミンと写真家の斎藤陽道さんとのトークショーの後にスミンのアコースティックライブ。斎藤さんは聾唖者なので手話通訳をはさみながら、スミンは青木由香さんが司会をしながら通訳というかなり実験的な内容。

斎藤さんは写真のスライドショーを見せ、スミンはそれにギターを弾き音を付け、台湾語とアミ族の言葉で語り歌う、それを青木さんが日本語に訳し、手元のノートでは筆記も交えながら(その手元の様子もスクリーンに映し出しながら)同時に手話で通訳する。


2つの言葉を通訳しながらなので全体の言葉の量は少なかったけれど、アイコンタクトや身振り手振りも交えてのとても濃いコミュニケーションがそこにあった。


実はスミンは今年の鹿児島のグッドネイバーズ・ジャンボリーに遊びに来てくれている。前の作品には元ダブルフェイマスの青柳も参加していたりといろいろ縁もある。今日は東京でひと月ぶりに会ったけど次は僕も台湾に行きたいし、また鹿児島にも来て欲しい。

来年どうやってランデブーするか、いろいろと作戦を考えよう。

http://www.1101.com/pl/seisakuchu2007/statuses/109740

Saturday, September 15, 2012

「みんなでつくる九州案内」についての個人的なこと




物心ついてからの記憶のある初めての旅は、小学校1年生の夏休みにまだ幼稚園だった妹を連れて鹿児島から北九州に汽車で行った時のこと。当時(今も?)は鹿児島では電車といえば路面電車のこと。国鉄のことは汽車と呼んでいた。我が家は僕が物心着くころには毎年父親が運転する車で九州各県を旅行していたのだが、この時はなぜだか妹と二人で行って来いということになっていた。

目的地は当時小倉に住んでいたいとこの家。首から下げたパスには切符と一緒に親に途中停車駅を全部書いてもらったカードを入れてあった。乗り過ごさないように駅に停まるたびに一つ一つ数えながら、時々グズる妹をなだめなつつ緊張してじっと椅子に座っていたことを思い出す。

その時はあろうことか、台風か事故かで列車がかなりの長時間(感覚的な記憶では4〜5数時)間止まってしまい、メールはおろか携帯もなかった時代なので鹿児島と北九州で親と親戚は大騒ぎだったらしい。乗っていた僕としては、朝汽車に乗って暗くなる前に着くはずがどんどん窓の外が暗くなり心細さは感じていたものの妙にわくわくしていた。いつもは暗くなる前に帰ってこいと言われていたのに、この時は立派な大義名分もあったので逆に張り切っていたのかもしれない。小倉では駅で待っていた親戚が泣かんばかりに出迎えてくれてちょっと得をした気持ちにもなった。

そうしてたどり着いた北九州でとにかく鮮明に憶えているのは、いとこの家のすぐ近くにあった到津(いとうず)遊園。家の前にこんな立派な遊園地があるってなんて素敵なんだろうと羨ましかった。小倉は当時からヤンキーが多くて、いとこの家のマンションの駐車場にも水玉のセドリックとか竹槍のようなマフラーのクラウンが普通に停まっていて、それもまた鹿児島では見たことのない世界で面白かった。ほとんどディズニーのエレクトリカル・パレードを見ているような気分で眺めていた。


今、九州を改めて案内するイベントに携わっていて細かく九州各県のことを調べたり地図にまとめたりしている。今回は沖縄以外の、車で回れる各県の情報をそれぞれの県の友人が案内してくれるというしかけのイベントをまとめているのだが、各県の人から送られてくる個人的な目線で捉えられたお勧めのエピソードを読むのが楽しくてしょうがない。パーソナルなことをちょっとはずかしげに、でもすこし誇らしげにパブリックにする時、そのことばはとても親近感を持って響く。

彼らが送ってくれる地元の思い入れにあふれた短いコメントを読んでいるうちに、なぜだかそれとは無関係に、ほとんど忘れていた自分が子供の頃に家族で旅行していた時の思い出が誘発されてよみがえってきてなんとも言えず心地良い。

僕は本当はとても腰が重くて出不精なんだけれど、旅に出るモチベーションをこの展覧会が再び与えてくれたように思う。会期は9月19日から10月15日まで。福岡天神イムズで各県の友人が選りすぐった逸品や旅のプランの展示もあり。各県に暮らす友人からの情報は、Google+ローカルにもアップされていくのでそちらから繋がることもできます。

https://plus.google.com/u/0/b/117267483545580068594/117267483545580068594/posts

Saturday, September 1, 2012

GOOD NEIGHBORS JAMBOREE'12

今年も夏と共にグッドネイバーズ・ジャンボリーが終わった。


僕らがこのイベントを構想してから約4年。初めて開催してから3回目の今年もいろんな波乱がありつつ、参加してくれたみんなに支えられてなんとか無事に終えることが出来た。

今年初めて参加してくれた何人かから「思っていたより規模が小さくて驚いた」という感想を聞いた。それでも1000人を超える来場者と300人近いスタッフと出展者で成り立っているイベントではあるのだが、夏になると日本中で開催される数万人規模の所謂夏フェスというものからすれば小さな規模であることは確かだ。

思ったより小さいと感じられるのは、おそらく様々なメディアで夏フェスのひとつとして紹介されることが多いからだろう。「これからどんどん大きくしていくんでしょう?」と言われることも多い。 
でも僕らが目指しているのは大量消費を生むような数万人規模のビッグフェスティバルではない。夏に行われるフェスティバルであることは間違いないけれども、初回からサブタイトルにMusic&Craft Campとつけているように、あくまでも手作り感のあるお祭りを作っているだけでそこから離れるつもりはない。 クリエイティブな縁日、もしくは村祭り。それがグッドネイバーズ・ジャンボリーの姿だ。

このイベントの実行委員会のコアメンバーはだいたい10人程度。そのうち実際にフルコミットしているのは5人くらいのものだ。ジャンボリーの場合はまずこのメンバーを中心に30人〜50人くらいの様々なジャンルのコミュニティがある。そのコミュニティの構成員がそれぞれ自分の友人を連れて来て、そこからさらにまたその友人が、、という具合でおそらく2〜3階層くらいであの小さな学校はいっぱいになる。ほとんどは顔の見えるレベルなのだと思う。 このイベントをきっかけに知り合った人ももちろん多い。

このイベントで提供されるコンテンツは実行委員会が中心になって選ぶけれども、選考基準はすでに僕らの友人であるかもしくは僕らが友人になって欲しい人かどうか。助け合いながら「良き隣人」としてこれからも付き合っていけるかどうか。

ご飯をおいしく作れる人、上手に木を削れる人、土から器を作る人、きれいな絵を描く人達、火を灯す人、花や植物をより美しく見せる技を持った人たち。動物の革を生まれ変わらせる人。日常の生活に使えるちょっと便利なものを作る技術。 
建築、ダンス、映画。写真や映像で瞬間を切り取る人。体をほぐす技術。髪をきれいに切る人。言葉を操るのがうまい人。みんなで盛り上がるには音を繰り出す人も欠かせない。

イベントをやるには調べものがうまい人、コミュニケーションが得意な人、人をまとめるのが上手な人も必要だ。なにもないという人はただ笑顔でいてくれればいい。そういう人が場の雰囲気を作るのであって実は一番大事だったりする。 そして勝手に遊ぶ子供たち。こうした人たちをどれだけ巻き込めるかこそが大切なことであって、その個人が有名かなんてことは関係ない。

とはいえ閉じたコミュニティだけのパーティにするつもりはもちろんない。来場した人たちを単なるお客さん扱いしないようこちら側へ巻き込む為のアイデアもみんなでいろいろと考えている。 


去年から始めた使い捨てカメラ「写ルンです」を手渡ししながら来場者みんなでイベントを撮影するプログラム、キャメラバトンは、一緒にその企画をしたタピオカトンネルのメンバーからのアイデアで「自分が知らない人に渡すこと」というルールが決められているが、それもこうした姿勢のあらわれだ。 



1000人単位で人が訪れるイベントではごみも大きな問題になる。今年からはサクラ島大学のみんなに地元川辺のごみの分別をならって、ごみを捨てる来場者自身にその場でごみを洗い分別して捨てるという体験をしてもらうことにした。まずイベントによるごみのインパクトを小さくする。同時に自分の足元から楽しませてもらっている森の事を、来場者自らに意識してもらうきっかけになることを目指した。

僕らがやっていることは至れり尽くせりのエンターテインメントを提供するフェスティバルとは程遠い。そういった完璧な環境を求める人ははっきりいって他のイベントに行ったほうがいい。逆に自ら参加する意識がある人にとっては面白いことを実現しつつあるのではないかという自負もある。 


今年のジャンボリーでは残念ながら途中洒落にならないくらいの土砂降りが降ったが、あの雨があったからこそR&R Steel Orchestraの演奏中の一瞬の晴れ間に出た虹に深く感動できたのだし、みんながなりふり構わず輪になって踊るという信じられない風景も現れた。

ずぶ濡れになりながら今年も力強い演奏を披露したしょうぶ学園のotto&orabuには何度も見ていてもやはり心を掴まれたし、滝のような豪雨の中健気に演奏を続けた女の子二人組のShe Talks Silenceも頑張っていた。

鹿屋から初登場のTagsはフレッシュな演奏を披露してくれたし、ソウルセット俊美さんの福島への愛あふれるライブも素晴らしかった。後で雨が降ったからこそ晴れていた午前中にに校庭の真ん中で行われたドラムサークルも、振り返ってみればこの日ならではのより素敵な体験になったと思う。DJやワークショップなど雨の中臨機応変に内容を変えたり工夫してがんばってくれた他のコンテンツもしかり。

そしてトリのTokyo No1 Soul Setの時に雨が止んだこともあって最後は大団円を迎えることに。それを思えばどろんこのずぶ濡れもぜんぜん悪いものじゃない。 


誰に頼まれたわけでもなくこんなイベントをやる「目的はなんですか?」と聞かれたりもするけれど、僕らがこのイベントを鹿児島でやっているのは、単にこんな感じで人が集まれる場所があれば自分達の街がもっと楽しくなると思っているからだ。イベントはあくまで街を楽しくするための手段であって目的ではない。だから収益を上げるために動員数をむやみに増やすことも必要ない。

僕らは来た人がものづくりの楽しさを味わい、自分でも始めるきっかけを作れれば成功だと思っている。自分の生活を自分で楽しくするちょっとした技と力を持つ。それは今日の晩ご飯をおいしく作るとか朝のコーヒーをちょっとうまく立てるというささいなものでもいい。そういう人が増えればその街はもっと楽しくなる。 街が楽しくなれば僕らもまた楽しく帰って来れる。たぶん他の土地に暮らす人にとってもそうなるだろう。その先にもっと広く地域を超えて横のつながりが増えていけばさらに楽しい。

いま鹿児島で盛り上がっている様々な動きは、僕らの周りにいる人たちのこんな想いによって支えられている。さらにおせっかいで横のつながりが強いという鹿児島の人の特性がそれをより強化するという好循環も生まれている。グッドネイバーズ・ジャンボリーはそのひとつのあらわれに過ぎない。 



みんなでつくりあげた、素晴らしい1日の内容の全てをここに書きだすことはとても出来ない。実際主宰者である僕ですら見ることが出来なかった場面がたくさんある。それくらいあの小さな学校の中はみんなのエネルギーで充実していたということだと思う。

今年も素晴らしいパフォーマンスを披露してくれたみなさん。前夜祭から盛り上げた実行委員会のみんな。雨の中走りまわってくれた運営スタッフや警備員さんたち。そして来場してくれたみなさん。本当にありがとうございました。 
全ての良き隣人たちに感謝を。次の展開を楽しみに。また集まりましょう。







※写真はタピオカトンネル、通りがかりの佐川のお兄さん他

Thursday, July 12, 2012

松永さんのこと

こんな日が来るなんて思わなかった。

かつてビクターから、蕎麦をテーマにしたSOB-A-MBIENTというコンピレーションアルバムがリリースされていた。僕はそこに個人名義で1曲作曲しプロデュースをさせてもらった。

僕が作った曲は、アコースティックギターとベースと最小限のリズムだけの静かなダブをイメージしてアレンジしたのだけれど、曲を構想する段階でどうしてもお願いしたいプレイヤーがいた。それは元ミュートビートのベーシスト松永孝義さんだった。

僕は鹿児島でラグビーに明け暮れていた高校生の頃にミュートビートを聴いてのちのち音楽を始めた。東京に出てきたころにはもうミュートビートは活動していなかったけど、当時は朝から晩まで聴いていたくらい好きなバンドだった。

大学に入って小学生以来のトランペットを吹き始めていたので、もちろんミュートのトランペッターこだまさんの音は大好きだったけど、それに加えてあのバンドが僕にとって衝撃的だったのはベースだった。レゲエという音楽は他にも聴いていたものの、ワンフレーズであんなにインパクトのあるベースをそれまで聴いたことがなかったのだ。

だから、自分がプロデュースして好きなアレンジをしていい、と言ってもらえて、ギターとベースだけというアレンジを考えた時、まっさきにお願いしにいったのが松永さんだったのだ。ギターはアコースティック・ダブ・メッセンジャーズの吉田君に頼んだ。松永さんが快く引き受けてくれた時は本当に嬉しかった。

今から10年ほど前のその日のスタジオのことは実はあまり記憶がない。緊張してそうとう舞い上がっていたんだと思う。松永さんは淡々とやってきて、新米プロデューサーのトンチンカンなリクエストもサラリとかわして、レコードで何度も聴いていたように最高のプレイをしてにこにこと帰っていった。

帰り際、次はうちに遊びに来いよ、と言ってくれたことだけは憶えている。松永さんは僕らの古くからの友人と結婚したこともあって、その後もあちこちでお会いすることはあったけれども、結局家におじゃますることも、一緒にプレイさせてもらうこともなかった。

今から思えばもっと馬鹿のふりをして、ずうずうしく押しかけて行っていればよかったと思う。直に会った時は気はずかしくて、大好きです、尊敬していますとちゃんと伝えることもできなかった。

ただあの時にちょっとだけ勇気を出して自分のつたない曲で弾いてもらったことが、僕の一方的に贅沢な思い出になってしまった。僕は松永さんにたくさんのものをもらったのに、お返しすることは出来なかった。今頃になって思い出したように後悔しても遅い。自分の至らなさを思ってやりきれないだけだ。

松永さんありがとうございました。安らかにお眠りください。
いただいたたくさんのものは、何とかして誰かに返します。

坂口修一郎

http://www.youtube.com/watch?v=EbpDiVxaq0M

Wednesday, November 30, 2011

Jane Birkin US Tour



震災直後の4月に急遽やってきたジェーン・バーキンのバックバンドをコーディネートしたことがきっかけで来ることになったジェーンのUSツアー。

ここにたどり着くまでにいくつかのハードルを越えながらなんとかアメリカに上陸。今回のツアーはシアトルを皮切りに北米(アメリカとカナダ)を8箇所(直前でバンクーバーがキャンセル)を回る予定。

USツアーの前にまずはスタッフとジェーン、バンドの僕らは東京でリハーサルを1日。翌日東京の国際フォーラムで一公演こなしてからアメリカへ向けて出発した。

アメリカ初日はシアトルから。今アメリカ人が一番住みたいという街シアトル。日本から向かうと時差の関係で1日稼ぐので28日に出国して28日の朝到着。1日調整して翌日がツアー初日。

最初の日は時差ボケを治すため飛行機で寝た以外はなんとか寝ずに過ごす。午前中にホテルにチェックインしてからちょっと休んだ後、ジェーンとも一緒にみんなでファーマーズマーケットの中にあって湖が見えるナイスビューのフレンチレストランへ。


夜はシアトルのアテネフランセみたいなところにジェーンが招待されたパーティがあるとのことでみんなで訪問。その後は思い思いにホテルの近所にあるザッツ・アメリカンな場末のバーにいってビリヤードをしたりして過ごす。


そうして迎えたアメリカ初日の夜。会場であるネプチューンシアターは20年代に建てられたシアターが映画館を経て今はライブハウスになっているという場所。2階席もあるかなりクラシックな感じの箱。


このメンバーでの初ライブとなった東京公演はジェーンを含む5人はとにかく緊張していたけど、アメリカに来てからは比較的リラックスムードの中初日を迎えた。

Friday, August 26, 2011

グッドネイバーズ・ジャンボリー2011


8月最後の日曜日。今年もグッドネイバーズ・ジャンボリーがやってくる。去年の8月に第一回目をやってから1年。ぼくの頭の半分は常にこのプロジェクトの事を考え続けている。

最初としてはなんとかぎりぎり乗り切った1回目。2回目を企画しながら開催発表をしたのは4月14日。あの信じられない災害が起きてから約ひと月後。

こんな時だからこそやらねばと思いつつ、その時は東京に暮らしながら果たして出来るのかという不安もあり。まったく2回目という手慣れた感じはなく、ほとんど1からのスタートに思えた。。



Tuesday, July 26, 2011

KASAMASHIKO


鹿児島で開催しているグッドネイバーズ・ジャンボリーで、鹿児島のクラフトの作家と交流するようになったこともあって、ここ数年作家の友人も増え、僕の生活もずいぶん変わってきた。

最初のきっかけを作ってくれたのは鹿児島の友人達だが、もともと器やクラフトに興味がなかったわけじゃない。ただ、これまでは陶芸とか木工にはなんとなくとっつきにくいイメージを持っていた。

特に陶芸特有の玄人気質というか、作家の方々のちょっと近寄り難い雰囲気というのかに押されていつもちょと遠めから眺めているというのが正直なところだった。

そんな僕が陶芸についに目覚めてしまったのは本当につい最近のこと。うちの奥さんといつか行こうと話していた益子のstarnetにドライブついでになんの気なしに出かけていった時だった。

奥さんは器には興味あったようだけど、その時starnetに足を踏み入れるまで、まだ僕にとって作家ものの陶芸の世界なんてどこか自分とは関係ないパラレルワールドだと思っていた。すでに何人かの作家には会って工房にお邪魔したこともあったにも関わらず。。

しかし、、残念ながらそこで出会ってしまった物。それが禁断の世界への入り口だった。そこで手にしたいくつかの器から目が離せなくなってしまったのである。
「????」
「このあたたかい宇宙みたいな物体はなんなんだ...」

それは鈴木稔さんと額賀章夫さんの器だった。特に鈴木稔さんの器は横にバリのようなものが出ていたりして、とにかく僕の常識のはるか彼方に存在する全く別のオブジェのように見えた。

それからずーっとその器や瓶のことが気になってしょうがなくなり、、とりあえず他でどこに扱っているのかすらよく知らないのでstarnetに通っては眺め。手に取り家ではコーヒーを注いで毎朝眺めということが続いた。

そんなにわか器ファンが、震災のこともあって今益子と笠間という産地に関わる仕事をお手伝いしている。秋に笠間と益子の物づくりを紹介する展覧会を、ランドスケープ中原くんと笠間益子の作家さん達と一緒に企画しているのだ。かねてからの愛好家や関係者の方々には、僕なんかが手を出すのはなにも知らないくせにと怒られてしまいそうだ。

ただ、僕が受けた衝撃がまだ超フレッシュであるがゆえに伝えられるものもあるかも知れないとは思う。器のプロなんかじゃないからこそ見えるものもあるような気がする。一応音楽のモノづくりには関わってきたおかげで、ものづくりをする人の気持ちはよくわかる。イベントという場をつくることであればまがりなりにも本職である。

そして僕の周りには最強の目利きがたくさんいる。ビギナーとしては彼らの話しにまずは注意深く耳を傾けながら自分の感覚を信じながら進んでいくのがいいのだろう。

震災をきっかけに始まった笠間と益子でのプロジェクトを通じて、若手の作家さんたちとの交流も始まった。同世代や若い世代の陶芸家達を見ているとまるでスケボーでもやるかのようにストリート感覚で焼き物づくりをしていたりする。なんだやってることは変わらないな、ということも分かってきたし、笠間と益子に東京を超えるクリエイティブな空気があることも見えてきた。

というわけで、まだ始まったばかりの笠間と益子というクラフト郷をつなぐプロジェクト"KASAMASHIKO"は、11月に伊勢丹での展示会の開催を目指して進行中。

そんな新参者を暖かく迎えてくれる気風もこの地にはある。まさかいきなり思いついて益子に走っていった僕の40歳の誕生日を祝ってもらえるなんて思っても見なかった。これもなにかのご縁か啓示か。。

前途は多難。でも僕は笠間と益子の物づくりに憧れる最新のファンの一人として、がんばってみようと思っています。



こちらは額賀さんと鈴木さんの作品の写真。とにかく彼らが活動している土地に出かけていって同じ空気を吸って実物を見るのが一番。ぜひ週末はかさましこへ。




Saturday, July 2, 2011

Tuesday Meeting

街の楽団Double Famous。
相変わらずマイペースに火曜日になると集まってる僕らですが、
先月に引き続き火曜日の夜に恵比寿カチャトラに登場します。
そろそろどこかの街に出かけていきたいところ。
いくつか決まっているスケジュールはもう少ししたら発表できるかも。
それまではカチャトラでお会いしましょう!

マイペースにゆるく活動を続けるDouble Famous今年初のライブのお知らせです。
もはやホームグラウンド。恵比寿のイタリアンレストラン、カチャトラにて
ほぼ電気を使わないアコースティックライブ。
ステージも客席も一緒に盛り上がりましょう!
7月12日(火)
19:00 open 19:30 start/ 2ステージ
charge¥2500要予約:恵比寿カチャトラ☎0337158218